源史料

『元朝秘史』
(モンゴルン・ニウチャ・
トブチャァン)

執筆言語 漢字のモンゴル語転写文(ウイグル語で書かれたと思われる原文は失われている)
書いてある範囲 チンギスの祖先の系譜から、オゴデイの治世まで。
内容説明 歴史書として書かれた書物ではないので、神話のようにエピソードがくっついたり分裂したりして、史実としての信頼性は低い。他の史料の補助と見られているが、当時のモンゴルの精神を伝える文学作品として、非常に重要。
日本語翻訳状況 小澤重男訳 岩波文庫 全2巻
村上正二訳 東洋文庫 全2巻
岩村忍訳 中公新書 全1巻












『集史』(ジャーミ・ウッ・タワーリーフ)
執筆言語 ペルシャ語
書いてある範囲 1巻がモンゴル史、2巻が万国史、(地理史だった3巻は現在散逸。作られなかった可能性もある)有史以来モンゴルまでのすべての世界の通史で、イスラム、ローマ、仏教などの宗教史も含む。
内容説明 フラグ・ウルス(イル・ハン国)の国家事業として編纂されたので、モンゴルからの直伝史料を使い、国中の学者や将軍たちから直接話しを聞いて書かれているため、信用性が高い。
日本語翻訳状況 完訳なし。(モンゴル部分のみ、フランス人ドーソンがフランス語に訳した『モンゴル帝国史』が日本語訳されている。
 佐口透訳注 東洋文庫 全5巻
 田中萃一郎訳補 岩波文庫 上下巻
『元史』
執筆言語 漢語。
書いてある範囲 チンギス・カンの10世の祖、ボドンチャルから、元朝最後の順帝まで。
内容説明 明朝によって作られた、中国国家のとしての元の正史。明朝成立後、冷却期間ナシで急いで作られたため(普通は100年くらい経ってアタマ冷やしてから書く)ずさんで有名だが、碑文などの原資料をそのまま引用しているので、便利な部分もある。
日本語翻訳状況 完訳なし。
一部のみ 
小林高四郎訳 明徳出版社(現在絶版)
見て分かるとおり、
大本の基本史料で
すでに言語がすべて
ちがいます。




日本の『蒙古襲来絵詞』みたいなのが、
世界中にあるわけです。
重要な史料が多い言語で、モンゴル語、
中国語、ペルシャ語、ロシア語など。
もうちょっとこまかいところまで範囲を
広げれば、20ヶ国語くらい軽くこします。
『集史』と『元朝秘史』の比較の一例 (長太子ジュチの生誕エピソード)
集史 元朝秘史
  • テムジンの留守中に集落がメルキト族に襲撃され、すでに懐妊していたボルテもさらわれる。
  • メルキト族はそのころ同盟関係にあったケレイト族のトオリル・カンにボルテを送り、それを知ったテムジンがトオリル・カンに返還交渉して帰してもらった。(書いてはないけど、ボルテが移されるたびに身代金の授受があったのだろう。
  • ボルテはトオリル・カンの所からテムジンの元に帰る途中、産気づいて道端で出産してしまい、護送していた部下が小麦粉を水でこねて赤ん坊を包み、苦しくないように服の裾にくるんで連れ帰った。(初産なのに、大変なことですι)
  • 思いがけず生まれたということで、「ジュチ(お客さん)」という名をつけた。
  • テムジンの集落がメルキトに襲撃され、逃げ遅れたボルテがさらわれてしまう。
  • ボルテはメルキト族のチルゲル・ボコの妻にされる
  • テムジンはトオリル・カンとジャムカの力を借り、ボルテを奪い返す。
  • (ボルテは妊娠しており、やがて男の子を生む。)
  • (誰の子かわからなかったので、「ジュチ(お客さん)」と名付けた
(カッコ内は秘史には
直接記されていない)
そもそも「ジュチ」って名前は、この時代しょっちゅう出てくるかなりポピュラーな名前で、それほど悲壮感はないのです。
(たとえば、チンギスの
弟のカサルの本名も
ジュチだもん。)

まさかああなるとは誰も思わなかったので、もう完全にノーマークで、
誰も何も書いてませんでした。
歴史の最初から史実と伝説が混じっちゃったので、史実だけ復元するのは不可能です。

モンゴルに限らず遊牧民は、記録する、される、ということに清々しいほど無頓着です。
おかげさまで、遊牧民が政権をとると、古今東西かかわらず、どれもこれも謎の民族ばっかりです。

モンゴルの場合でも、テムジンが若いころのことなどは史料によって言うことがまちまちで、ほとんど分かりません。
他の部族と戦争したりかかわったりする頃からやっと推定可能になり始めて、第2次即位(草原部族を統一し、チンギス・ハーンと名乗る。テムジンだいたい45歳前後といわれる)以後、やっと歴史的に信用できる記録が出てきます。
他の民族が、モンゴルの事を記録し始めるからです。

しかし、書いているのはたいていモンゴルにこてんぱんにやられた相手なうえ、歴史を書くことに興味がないモンゴルたちは、自分たちに都合の悪い歴史を握りつぶすようなこともしなかったので、真実とはかけ離れた誹謗中傷に近い歴史書も多く見られます。
戦災被害の規模などは、実際の100倍くらいに書かれているといわれています。(考古学発掘ではどう多く見積もっても7、8万しか住めないと思われる都市で、数百万殺したと記録されてたりする。しかもその後もちゃんと人が住んで繁栄してたりする。)